suikazukのうんぬん

日々考えるよしなしごとをのせていきたい。

黒バス脅迫犯の薫り高いコメント

少し前、ジャンプ漫画「黒子のバスケ」が脅迫を受け、関連製品の販売取りやめや、ブース出展の見送りをした一連の事件がありました。この犯人である渡邊博史受刑者は、その動機として、または別の話で少年Aによる絶歌へのコメントとして、超長文コメントを残しておられ、それが非常に面白かったので、以下にリンクを貼っておきます。

bylines.news.yahoo.co.jp

bylines.news.yahoo.co.jp

一度読んでみて感じたのは、なんと薫り高い文章だろう、ということ。自己満足で自己完結な文章を練りに練ってあらゆる酵母を使って発酵させ薫ってくるような文章です。まあ私のブログに比べたら影響力も文章力も格段に上なわけですが。

私にとって、彼の考え方は新しい概念であり、非常に面白く感じました。最終意見陳述の方を要約すると以下のようなことだと思います。

「自分は親・教師・友達・社会に見捨てられ、精神が発達していない上、社会的に何も役に立たない・立とうとも思わない大人になってしまった。そんな中でも生きてきたのは、嘘で固めた社会との弱いつながり(マンガ家を目指して挫折した負け組、上智大学中退というウソ、同人誌の世界の片隅の一人、等)があったから。これらを強く持っていた黒バス作者に拠り所のない怒りをぶつけた」

なんと独りよがりな…。大体最終意見陳述の内容は被害者への言葉とかだと思うのに、ここで自分の過去を独白し始めるとは…。とか言いながらも、読み入ってしまう文章でした。

おそらく、彼は非常に視野の狭い、ちっぽけなプライドを保つような生き方しかできなかったのでしょう。一部は本当にどうしようもないことだと思いますが、自分が悪いのを文章の勢いで正当化している部分もあると思います。

例えば専門の人とか、コンビニの同僚とか、友達になれそうな人は少なくとも1人はいたのでは?または自分と同じような境遇の人が1人くらいいたはずで、そういう人と傷をなめあうことは考えなかったのか?今のご時世コミュ障になってしまった人に対するセーフティーネットとか、救う場はあるのではないだろうか?

思考の悪いループに入ってしまっていますよね。自ら自分を改善していくことをなぜ考えないのだ…

 

なんだかんだ言っても、やっぱり共感してしまいますね。基本的に努力教信者な自分でも、たまに自分が世界でちっぽけすぎて泣きたくなる時や、いじめを受けて性格がねじ曲がったなと思うこともあるわけですし。多くの人は多かれ少なかれこんな気持ちを持ちながら、でも前を向いて日々のうのうと過ごしているんですよね。渡邊受刑者は、のうのうと何も考えず生きていくことに限界が来て、気持ちを濃縮させながら、どうやって世界に自分の足跡を残すか、と考えて生きてしまったのでしょうね。

でも彼は、自分が精神的に未熟だと実感している点で、本当に未熟な人より上にいます。そしてあれだけ望んでいた社会への影響力というものを、これらの独白・コメントで得ることができた。(それが憎く恨んでいた(と私が勝手に考えている)出版社のおかげというのも皮肉な話ではありますが…)ついに「巧妙な罪を犯す」という「努力」によって、世間の注目を浴び「社会とのつながりを得る」という目的は達成され、これからは意気揚々と生きていくことができるのではないでしょうか。